静かに流れる砂鉄川に身を委ね、舟は滑るように進む。両岸から迫る断崖が天を切り裂き、眼前には百年の時を超えて語り継がれる景観が広がる。岩手県一関市東山町、ここに猊鼻渓はある。
悠久の歳月をかけて砂鉄川が石灰岩を削り取り、築き上げた渓谷は約2キロメートルにわたって続く。高さ50メートルを超え、時に100メートルに達する断崖絶壁が両岸に迫り、訪れる者に圧倒的な存在感を示す。その姿は荘厳であり、同時に繊細でもある。水面に映る岩壁の姿は、水墨画の世界を思わせる静謐さを湛えている。
猊鼻渓という名は明治43年(1910年)、地元の有志によって名付けられた。その名の由来となったのは、舟下りの折り返し地点に佇む「獅子ヶ鼻」の奇岩だ。獅子の鼻に似たその岩の形は、自然が気まぐれに残した芸術作品だ。
不思議なことに、この絶景は明治時代まで地元の人々にさえほとんど知られていなかったという。藩の役人が来た際の接待負担を避けるため、あえてその存在を秘匿していたとも言われている。風土記や絵図にも記述が残されていないこの秘境を、世に広めたのは佐藤猊巌とその父・洞潭であった。彼らは私財を投じてこの地を磨き上げ、大正14年(1925年)には国の史蹟名勝天然記念物に、昭和2年(1927年)には日本百景に選ばれるほどの名所に育て上げた。
渓谷を巡る最も優雅な方法は、船頭が一本の棹で操る舟下りだ。約90分かけてゆったりと流れる船旅は、忙しない日常を忘れさせる。船頭が歌う「げいび追分」の澄んだ歌声が谷間に響き渡り、心を洗われるような清らかさを感じる。
この地にはいくつもの奇岩が立ち並ぶ。夫婦岩と呼ばれる壮夫岩と少婦岩は、90メートルの高さから寄り添うように立つ。朝日を受けて鏡のように輝く鏡明岩、人の顔に見える人面岩、馬の髭に見立てられた馬髭岩、そして高さ124メートルを誇る大猊鼻岩。これらすべてが、自然が何千年もかけて彫り上げた彫刻だ。
獅子ヶ鼻にある「願掛けの穴」では、素焼きの運玉を対岸の穴に投げ入れる古くからの風習が今も続いている。運・寿・福・縁・願・恋・愛・絆・禄・財の文字が刻まれた玉が穴に入れば、その願いが叶うという。人々の希望と祈りを込めた小さな玉が、カラカラと音を立てて谷間に響く。
猊鼻渓の魅力は、季節によって表情を変える。春には藤の花が岩肌を彩り、夏には深い緑が生い茂る。秋には紅葉が谷全体を火のように染め、冬には雪が降り積もり、まるで墨絵のような世界が広がる。冬には「こたつ舟」も運航され、暖かな炬燵に足を伸ばしながら「木流し鍋」と呼ばれる郷土料理を味わうことができる。この鍋は、かつて川で木材を運んだ「木流し」と呼ばれる人々の食事が起源とされている。
この地には悲恋の物語も残されている。三太郎という男性と妻トリ、そして彼を慕っていた長坂村の娘小夜の物語だ。小夜は叶わぬ恋に身を焦がし、ついには獅子ヶ鼻から身を投げたという。川砂に混じる黒い砂鉄は彼女の肌から流れ落ちたもの、渓谷を舞うカワスズメは彼女の化身だと今も語り継がれている。
訪れる時期を選ばないのも猊鼻渓の魅力だ。春の新緑、夏の清涼、秋の紅葉、冬の雪景色—どの季節も独自の美しさを湛えている。特に5月中旬の藤の花と10月中旬から11月上旬の紅葉は圧巻で、多くの人々を魅了する。
周辺には厳美渓や世界遺産の平泉など、他にも見どころが点在する。これらを組み合わせれば、東北の自然と歴史を深く味わう旅ができるだろう。
猊鼻渓を訪れることは、時間の流れを忘れる体験だ。刻々と変わる自然の息吹を感じながら、船頭の棹さばきに身を任せ、ただ目の前に広がる景色に没入する。川のせせらぎ、岩壁に響く風の音、鳥たちの囀り—これらすべてが調和した自然の交響曲が、あなたを包み込むだろう。
言葉では表現しきれない一瞬の美しさを求めて、岩手の奥地に隠された自然の傑作「猊鼻渓」へ。その静謐な時の流れに身を浸せば、魂が清められていくような感覚を覚えるはずだ。
悠久の時を超え、いつの時代も変わらぬ美しさで人々の心を掴んできた猊鼻渓。それは単なる観光地ではなく、自然と人間の織りなす物語が息づく、生きた芸術作品なのだ。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

